「美しさもまた迷いに過ぎない」
これも『美の法門』の中の言葉です。
そしてこの言葉の後には「それが醜さに対する限りは。」と続きます。
「真に美しいもの、無上に美しいものは、美とか醜とかいふ二元から解放されたものである。」
「醜でない美といふが如きものは高が知れてゐる。そんなものが真に美しいものである筈はない。」
「(真に美しいものとは)醜に向ひ合はぬ不二の美、美それ自らとでも云ふべきものである。」
2020.04.28 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 柳宗悦先生

~~~ 美の浄土へ・・・・・ ~~~
これも『美の法門』の中の言葉です。
そしてこの言葉の後には「それが醜さに対する限りは。」と続きます。
「真に美しいもの、無上に美しいものは、美とか醜とかいふ二元から解放されたものである。」
「醜でない美といふが如きものは高が知れてゐる。そんなものが真に美しいものである筈はない。」
「(真に美しいものとは)醜に向ひ合はぬ不二の美、美それ自らとでも云ふべきものである。」
2020.04.28 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 柳宗悦先生
柳宗悦の著書『美の法門』に出てくる言葉です。
そして「何ものをも彼(仏)の慈悲で迎え取ってしまうのである」から、我々は「救いが果たされている中で悩んでいるに過ぎないことになる」と。
「仏がいて救うのではなく、救いが仏である。」
2020.04.28 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 柳宗悦先生
禅では「月をさす指に囚われてはいけない」ということがあるようです。そういう意味では「美の標準」を示そうとした柳宗悦の著作は「月をさす指」でしかないのかもしれません。
ただ柳の著作がすばらしいのは、彼の著作は「月をさす指」でしかないかもしれないけれど、その指がきちんと月をさし示しているからなのではないかと思っています。
柳宗悦が美の標準を「モノ」で示すことにこだわったのは、そのあたりの自覚があったからなのではないかなぁとも思っています。
2020.04.21 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 柳宗悦先生
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Author:美の法門
「『美しさ』や『美しい』とは何か。」について考えていけたらと思います。