初夏の頃、日本の各地で田んぼに水を張って田植えをする光景が見られます。私は、田植え直後の水をはった田んぼに映る風景を眺めるのが好きで、そのように空を映しだして広がる水田の様子を「田鏡」と呼んでいます。
田鏡は、自転車や自動車に乗って滑るように移動しながら眺めると格別で、離着陸時の低空飛行の飛行機から眺めるのも贅沢なものです。
鏡ということからすると、苗のないまっさらな水面のほうがより風景が美しく映るように思われるのですが、苗のない水面では映し出される風景がのっぺりと寒々しく感じられ、魅力がないのです。苗があることによって、風による水面の乱れも少々ならば気にならなくなり、またそれらの苗がソフトフォーカスの役目をするかのように、映し出される風景に柔らさや温かみを与えるのです。
そして部屋に鏡があると部屋が広く感じられるように、この季節に田鏡の中を通り抜けていくと、この世界が少し広くなったように感じられて、心も広々としてくるのです。

2013.06.26 |
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それは普通の家だが、とても美しかった。
その家の天井や壁は、ベニヤ板や杉板、漆喰塗り、コンクリートブロックなどの高価とはいえないものからなり、目につくような装飾はない。やや特別なものとして、居間の壁に暖炉(ファイアプレース)があるが、それとて白く塗られた鉄板でつくられた簡素なものだ。しかし、そこにある安らぎは温かくしっとりとして、自分が何かに守られているかのようだ。それは「南台の家」と呼ばれ、そこには建築家である吉村順三がおよそ半世紀にわたり6回の増改築をしながら住んでいた。彼は数多くの住宅の設計を手がけ、それらの家々に彼は入手しやすくかつ安価な資材をもちいながらも、住み手が心地よく便利に暮らせるようにと心を砕いたという。
そのような「普通」の家でありながらとても美しいということは、私に「用の美」という言葉を想起させた。「用の美」とは民藝を提唱した柳宗悦が民藝の美の大切な要素として述べた言葉で、手近・身近な材料を使い、実用を主眼として作られた品々におのずとそなわってくる美しさのことであり、柳はその美しさを「発見」し拾いあげた。
吉村は、住み手の快適さをもっとも大切に考え、それに寄与しないものは取り入れなかった。そのようにして使いやすさ快適さを求めて彼が作った家は、簡素でありながらも上質な美しさが感じられるものとなった。それは彼の「我」が美を損なうことがなかったからではなかろうか。そして彼の作った家は、用の美をそなえた現代の民衆的芸術の家、すなわち現代の民家といえるのではないだろうか。

2013.06.08 |
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柳宗悦が『大無量寿経』の第4願(無有好醜の願)に啓示を受け、昭和24年に私家本として刊行した本のタイトルです。
その中で柳は、「真に美しいもの、無上に美しいものは、美とか醜とかいう二元から解放されたもの」であり、「自由になることなくして真の美しさはない」と主張しています。
世界がそのような美に満ち溢れた「美の浄土」に近づくことの助けに少しでもなれることを願って、このブログを書いていきたいと思います。
2013.06.08 |
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